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辻恵子個展 [art]

辻恵子さんの個展を、荻窪のカフェひなぎくにて、最終日に見た。

辻さんの作品について、以前に書いたテキストはこちら

今回はカフェの一角のギャラリースペースでの展示。薄暗くて、茶色の木の質感が温かく、たくさんの本が並べられた、居心地の良い店内。(電車の喧騒と振動がなければもっと良いのに!)その奥に飾られた辻さんの切り絵作品の数々。カフェの雰囲気とちょうど溶け合って、それぞれにキラリとした光を放っていた。

ギャラリースペースのすぐ横の席に座って、ミルク珈琲を啜りながら、ふと上方に目をやると、小さなガラス壜に詰められた作品が天井からぶら下げられていた。ボトルの中に閉じ込められた、切り絵の女性の横顔。もちろん、それも、印刷物の活字から切り出された、紛れもない辻さんの作品であった。

額装で見てももちろん素敵なのだが、辻さんの切り絵のもう一つの楽しみ方として、地となっている印刷物を意識して見たとき、特に裏側を見たときの、軽い驚きというものがある。それがいかにも一般的な文字でありありふれた印刷物であればあるほど、辻さんの眼と手の魔法によって、切り取られた「かたち」が描き出しているドラマに、あらためて感嘆させられたりもするのだ。

両面から見ることができる額装の作品は、前にもあったけれど、ボトルに詰められた作品を見るのは、たぶんこれが初めてで、作品自体とはまた別の、新しい物語が、そこから広がっているように思えた。もしも、この壜を、メッセージボトルとして、海に流したら……?受け取った異国の海岸に住む人は、その中の不思議な紙片を、一体これは何なのだろう?と訝しく思って見るのかな……?異国の文字と、そこから思いもよらぬ形で、立ち現れてきた、女性の横顔を。

……と、以上は、少しばかり、ロマネスクすぎる空想であったやもしれぬ。

(8000円もする作家さんものの大事な作品を海に流したりなんかできるわけもなく。)

辻恵子さんのホームページ

The Attic of Rabbit

 

コメ作り社会のヒト作り革命 新しい「人事評価システム」が日本を変える

コメ作り社会のヒト作り革命 新しい「人事評価システム」が日本を変える

  • 作者: 漆山 治
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2005/07/02
  • メディア: 文庫

これまでの辻さんの本のお仕事の中でも、特に辻さんの作品の個性が活きていると思った装幀!「成果主義」から切り取られて、抜け出していく、この人々の躍動感ったら!


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アール・ブリュット [art]

芸術新潮 11月号 [雑誌]

芸術新潮 11月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/10/25
  • メディア: -

雑誌『芸術新潮』の特集=アール・ブリュットの驚くべき世界を購入。表紙はヘンリー・ダーガー。
ブルノ・デシャルムと小出由紀子の対話篇が興味深かった。
ブルノ・デシャルムは、「アール・ブリュット(生の芸術)」と、英語圏で定着している「アウトサイダー・アート」という用語は区別されるべきものである、という発言をしている。

ヘンリー・ダーガーの作品を知ったのは、同じく『芸術新潮』の特集=病める天才たちだった。1993年の12月号。こちらでは小出由紀子は「アウトサイダー・アートの系譜」という論文を書いている。

同じ作家についても、アメリカとフランスで、美術史的な位置付けの違い、文脈の違いがあるようだ。
日本では今後どういう捉え方がなされていくのだろうか?


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「生(なま)の芸術 アール・ブリュット」展(11/9) [art]


ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で



ヘンリー・ダーガーが好き…。

Passion and Action... / 不可解な情熱、無意識の反復。

電車の中で、あるいは、路上などで、ひとりきりで、携帯電話も持たずに、何事かを大声で話し続ける人を見かけることがある。しかも、その多くは意味不明であるが、内容が聞き取れたかと思うと、遠慮のない罵声であったり、禍々しい呪詛であったりもする。
そういう人々に出会ったときは、なるべく距離をとり、出来る限り関わり合いになることを避けるのが普通だし、賢明であろうが、そうした人々の発していた声と言葉が、妙に印象に残る場合もある。その言葉が、何事かの、秘密や本質を表現しているかのように思えてならない、そんなことが。
「生(なま)の芸術 アール・ブリュット」展は、いわゆる「アウトサイダー・アート」、精神病患者や知的障害者による絵画やオブジェを、その特異さに着目し、美術として見る視点から収集・研究された作品群を集めた展覧会だ。
銀座の瀟洒な会場に、半端ではない、まさに生(なま)のエネルギーが、展示物から溢れ出し、渦を巻いているような印象を受けた。その圧倒的なパワーに打ちのめされて、見終わった後には、すっかり疲れてしまった。
執拗に繰り返される同じモチーフ。無数の曲線によって描き出される文様。すべてが常軌を逸して繊細かつ偏執的だ。「神は細部に宿る」?しかし、その多くには、はじめから、細部のみしか存在していないかのようにも思える。全体という認識はなくて、ただ部分だけが、部分の集合だけが、画面を支配している。そこに封じ込められた感覚は、時空を隔てても、決して色褪せることがないかのように、作品の前に立つ見者の意識に容赦なく侵入し、その足を震えさせ、その場に立ちすくませるのだ。

HOUSE OF SHISEIDO
http://www.shiseido.co.jp/house-of-shiseido/


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die pratze dance festival ダンスがみたい! 7 [art]

die pratze dance festival
ダンスがみたい! 7
インターナショナル ダンス コラボレーション
麻布die pratze
http://www.geocities.jp/azabubu/

浜口彩子さんのダンスを見に行きました。

■浜口彩子『レモンボム - trio version -』
暗転。3人の黒い制服姿の女性ダンサーの登場。舞台の端には、昔の学校で使われていたような、小さな木の机と椅子が置かれている。柔らかなノイズが会場を包みこむ。
踊っているときの彩子さんはやっぱり凄いな、と思った。客席とは別の世界を、舞台上に一息で広げて、ほんの小さな動きひとつによって、その空間の色を、何度でも鮮やかに塗りかえてしまう。彩子さんのダンスを見るのは、今回が2度目。色白の小さな顔、表情豊かな大きな目に、緊張感と表現力とが交互に見え隠れする。普段会うときの、自然な和やかさで、お話しているとなんとなく安心する彩子さんとは、まったくの別人のようだ。抜きん出た、異形のごとき、神憑りのごとき、圧倒的な存在感。幼く見える一瞬、すべてに疲れ果ているかのように気怠く見える一瞬、奔放に楽しげに見える一瞬、手による拘束によって歩みがぎこちなくなった次の刹那には、驚くほどなめらかに動き出して、走り出す、次々と切り替わっていく表情と動き。
光と影が揺らめいて遠ざかったり近付いたり。動作は相当に激しいのに、踊っている誰もが、自分だけの物思いに耽っているように思えるのは何故だろう?繰り返される、時計の音、鳥の声、始まりを告げる、終わりを知らせる。真っ黒に統一された場に出現した黄色いレモン。ぐるぐると振り回された鮮やかな黄色の色彩の残像、整然と並べられたレモンの列。女の子たちが、手に持ったレモンに齧り付く。
あの檸檬は、書棚の上に置かれた憂鬱な爆弾?
あるいは、臨終の床で、がりりと噛まれた、物悲しい、最後の晩餐だったのだろうか?
http://www.ayakomin.net/dance.html

■パン・ヒソン現代舞踏団
<呻吟2005> - 副題「カフカの変身」
失礼を承知でまずは一言。「ウワー、これぞまさしく韓流!」…だってこれでもかこれでもかというくらいに過剰なのだ、すべてが。ダンスも過剰、演出も過剰、衣装も過剰、舞台装置も過剰。
ダンスの公演ではあったけれど、演劇的要素がかなり強く、カフカの「変身」が副題+原作としてクレジットされている。セリフがあったけれど、韓国語だったので、意味はわからず。けれども、4人のダンサーによる、ファミリー・ロマンスの物語であることぐらいは、なんとなくわかった。
男性ダンサーが、チェーンを両手に巻いて、バタンバタンと転げ回るから、ノイズが凄くて、驚く。倒れ込みながら、金属のバケツを吹っ飛ばし脚立に突っ込み、さらにガチャーンガチャーン。「さすがにこれ以上はもう転がらないだろう…」と見守ってると、まだまだ長々と倒れ込み続ける。 ガチャーンガチャーン。
さらには、食物を使った、ハプニング的な要素が展開されるのである。豆腐はすり潰され、リンゴが投げつけられて砕け散り、生レバーが受け渡しされ、血糊がダンサーの体と床とにぶちまけられ、白い粉(たぶん塩?)がシャベルでザバッと浴びせかけられる…。
マイム部分がコントのようにしか見えなかったこともあり、ところどころで、思わず笑いそうになるのをこらえるのに必死でした。ごめんなさい。


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ローザス『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』 [art]

Rosas, "Bitches Brew/Tacoma Narrows"
2005/4/9/Sat. 彩の国さいたま劇場大ホール

公演が終わってから、会場の外に出た瞬間、明るい日本の春の青空が開けていることに、猛烈な違和感を感じた。何しろ、外国のクールなナイトクラブでの一夜に、居合わせていたかのような気分に、なんとなく浸りきっていたのだから。
以前に同じ場所で見た『レイン』とは、まったく違った雰囲気だった。『レイン』の音楽は、スティーヴ・ライヒの曲で、ダンサーの動きはダイナミックなのに、同時に、音楽と舞台上の全体から受ける印象には、静的な緻密さと禁欲的な厳密さがあり、すべてがひたすらに、ただもうひたすらに美しかった、その美しさだけが、意識にはっきりと今でもやきついているのだ。
今回の『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』の音楽はマイルス・デイヴィス。ライヒのCDは家にあるのだが、マイルス・デイヴィスのCDはあったかどうかわからない、個人的には、そういう馴染みの薄い系統の音である。『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』は、『レイン』とはまったく違った、奔放で艶めいた魅力とテンションの高さが感じられるものだった。たとえば、開演前にDJが入り、ラップ・ミュージックが大音量で場内に鳴り響いている、そのセッティングからして、『レイン』のときのイメージから大いにかけ離れていた。
ダンサーたちの笑顔、衣装からのぞく素肌のセクシーさ、軽い一度だけのスクラッチ、崩壊していく橋の映像。
聞いたり読んだりした、同じ公演を見に行った他の人のコメントによると、賛否両論、どちらの意見もある、というような感じだけれども、あれはあれで、すごく良かったんじゃないか、と素人ながら思う。そうなのだ、ダンスについて語ったり評価したりするほどの知識なんか、まったくないから(ダンスというものを見ること自体、これがまだたったの3回目なのだ)、ただ、90分間、少しも退屈せずに、固唾をのんで、じっと舞台を見つめていられて、そこから放たれるエネルギーに圧倒される、そこから何らかのパワーを受け取ることができた、その体験の事実だけで、もう十分なのである。でも、前回と今回、どちらが好きか、という風に考えると、『レイン』の方が好きだし、『レイン』を先に見ていたからこそ、『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』にも足を運んだのであって、順番が逆だったら、それっきりダンスとは縁遠くなっていたかもしれない、と思ってしまったというのが、真っ正直な感想。

http://www.conversation.co.jp/schedule/rosas/


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辻恵子さんの切り絵 [art]

昨夜、仕事帰りに、根津のCAFE NOMAD(カフェノマド)にて、辻恵子さんの個展を見た。

辻恵子さんの個展を見るのは、もう何度目だろう?
辻さんの作品は、もちろん印刷物などで見ても、十分に魅力的なのだが、やはり、どうしても実物を見たくなってしまうので、お知らせをいただくたびに、ついつい足を運んでしまう。

辻恵子さんは、新聞や広告などの、日常的に目にする紙から、一筆書きのように、人物像を即興的に切り出す切り絵作家であり、その作品は、本や雑誌の挿し絵や装幀にも使われている。また、切り絵以外の、手書きのデッサンやペン画も、切り絵とはまた一味違う魅力があって、とても素敵なのだった。

辻さんの切り絵は、サイトの画像や、印刷物で目にすることもできるけれど、展示で、実物を一度は見るべきものだと思う。
本当に小さい、とても小さくて、その繊細さにまず驚く。
次にびっくりするのが、切り絵として切り取られた、小さくて美しい形象の、色が付いている部分は、元の紙に印刷された地と文字の色を、そのまま使用したものであることだ。それらが、線や色を意図的に重ねていくことで、作り上げられて出来上がったのではなくて、あらかじめ固定されている色や図形の中から、ぱっと切り取られて存在しているものである、ということが、とても面白いと思う。
印刷された文字を見て、そこに様々なポーズをとった人体を、すぐさま思い浮かべることができますか?
普通はただの活字としてしか認識していない・できない平面の上に、辻さんはイメージを描き出し、それを切り取ることで、活字を作品として生まれ変わらせる。辻さんの目には特別な力が備わっているんじゃないか、といつも思う。イロとカタチとパーツをスキャンして実体にするインスピレーション。
辻さんが無印良品のハサミを使っていらっしゃる、と聞いて、実は、その後に、同じ物をなんとなく購入して持っている。もちろん、真似なんかできやしない、できるはずもないとわかっているから、試みたこともない。
日めくりカレンダーの一日一日の日付すらも、切り絵の素材となって独立した作品になる、辻さんの特殊能力は、自在かつ奔放で、さらには、この上なく洗練されたセンスまでもが装備されているのだ。

以前の個展で、表と裏の両側から見ることができる額装の展示があって、表から見ただけのときよりも、辻さんの切り絵の面白さを、より強く、感じたことがあった。
手を繋いだ二人連れの切り絵、恋人同士かな?などと、ぼんやり想像しながら、裏側を見ると、「打率首位」というスポーツ欄の見出しがあったり。テレビ欄だったり。
でも、もう一度、表を見ると、そこにあるのは、紛れもなく、辻さんの作品なのだった。

昨日の展示でも、少年の肖像から、大きすぎる目をした、ひっつめ髪の女の子が、切り出された作品があって、元々描かれていた、端正な少年の顔とは、まったく違う印象の横顔の彼女が、今にでも自分勝手なおしゃべりを、べらべらと勝手に始めそうで。

切り出されて空白を抱いた元の素材と、切り出されて自由に動き出しそうな人物像の両方とが、組み合わせられて、切られたその一瞬にして生まれ変わらせられた、新しい魅力を発散させているのが、辻さんの切り絵の作品そのもので、そこに、辻さんの目と指先に秘められた魔法の存在を、その作品を目の前で見るたびごとに、感じずにはおれないのだった。

The Attic of Rabbit
http://members.aol.com/atticofrabbit/


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「痕跡——戦後美術における身体と思考」展 [art]

「痕跡——戦後美術における身体と思考」展
2005年1月12日(水) −2月27日(日)
東京国立近代美術館 本館 企画展ギャラリー(1階)

展覧会としては、まず、「痕跡」という切り口が非常に興味深い、とまず思った。日本/海外の作家という区別に限らず、1950年代から70年代後半美術を、「痕跡」という視点で、世界的に俯瞰している美術展だった。
キャンバスの表面に対する、さまざまなアプローチによる「痕跡」…作家の身体によって/から/の表層に、作品として提示された「痕跡」…。

表面の質感に、特にこだわった作品の前に立つと、つい、ちょっと触ってみたい衝動にかられるのだが、もちろん、そんなことはいたしません。

一つ一つの作品に、その作品に付随している美術史的な文脈と、今回の展覧会における位置付けなどが書かれた、解説が付与されていた。その短文が、キュレーターの熱い思い入れと、美術に関する造詣の深さを感じさせるもので、それがないと、何がなんだかわからなくなってしまうのは確かなのだが、語彙が専門的すぎるのか、なんとなく賢しらで、嫌みったらしくもあり、率直に言うと、ちょっとうざったかった。美術に関して(も)思考停止して久しいのだが、それでもやっぱり、というか、あるいは、それゆえなのか、いきなり、
「ロザリンド・クラウスが論じたように…」
云々、と、解説文が組み立てられていても、よくわかりません、以外に、感想がなくなってしまうし、鑑賞者の視点や思考を、かなり一方的に、限定してしまう部分が、どうしてもあるように思われるし。まあ、良し悪しの両面があるってことで。

そのわりに、順路がわかりにくくて、途中で、右に行くか、左に行くか、激しく迷った。ちなみに左から回るのが正解。左の奥には子供と感受性の強い方は入ってはいけない刺激の強い小部屋が。ある意味パンクな(シド・ヴィシャス的な)自傷行為とかの。

インターナショナル・クライン・ブルーって、ずるいよな。あれがあの色じゃなかったら、きっと全然つまらない。

血が滴っている動物の内臓が、歩道に落ちていたら、見なかったふりをして、何事もなかったように通り過ぎるのが、最も一般的な反応のような気がする。感受性の強い人なら違うのか?ねえ、アナ・メンディエッタさん(故人)!

村上三郎の真似をしたい。そしてみんなに拍手をされたい。
紙をバリバリ破って登場するの。突き破って出てきた瞬間を写真をパシャパシャ撮ってもらうの。

http://www.momat.go.jp/Honkan/TRACES/index.html


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Larry Clark / punk Picasso [art]

ラリー・クラーク「パンク・ピカソ」展@ワタリウム美術館をひとりで見に行く。しかし、実を言うと、ラリー・クラークの映画(『KIDS』、『ブリー』など)は、一本も観たことがない。気になってはいたのだが、痛ましそうなので、今までわざと避けてきた。今日、写真展は見に行くことにしたのは、以前、別の企画展で出品されているのを、たまたま目にした作品が、とても印象に残っていたからだ。でも、今回の写真展を見に行って、映画もちゃんと観たいなとあらためて感じた。絶対に痛い気持ちになりそうなので怯えつつも。なぜならば、若さゆえにしろ無知ゆえにしろ、何のせいにしろ、どうしようもなくもはや取り返しのつかない事態、というものを、目の当たりにして、その取り返しのつかなさを、心の底から思い知らされるような経験が、ひどく苦手だからだ。壁一面が、ラリー・クラークが収集したという、リバー・フェニックスのグラビアのコレクション、という展示があったので(今回の展覧会は写真だけではなく、新聞や雑誌の記事のスクラップからプライベートな書簡、レコードコレクションまでを彼の人生のアーカイブとして展示するという内容だった)、故リバー・フェニックスの大ファンを自認する人は、それだけのためにこの展覧会を見に行く価値があるかもしれないなあ、と根拠なく考えた。ラリー・クラークが、反米・反イスラエルの人を、本気で暴行してボコボコにした、という新聞記事の展示もあり、どうしてそこまで?と一瞬疑問に思ったのだが、その直後にある、彼自身が撮影した9月11日の写真を見て、なんとなく納得してしまった。あの光景を目撃してしまった人間が、「9月11日という出来事はアメリカにとって最良の日だ」云々ということを言われて、逆上する気持ちはわからなくもない。その瞬間に、よりにもよってカメラを手にしてしまいシャッターを切ってしまった、という自分自身の業を、彼が自覚しているとしても自覚していないとしても、その日のその瞬間が、衝撃として、トラウマとして、その人の心の中に、一生、宿ることは、どれほど考えたとしても、言葉にならないほどに、忘れ難くこびりついて残り、それが感情の起爆剤として作用したとしても、仕方のないことのように思えた。展覧会の最後に掲げられた、そのたった一枚の写真を目の当たりにして。
ワタリウム美術館の後に、同じ建物内のオン・サンデーズでの、深澤直人「ありそうでないもの」展も見た。別にこの人のデザイン(auインフォバーなど)が特別に好きということもなくて、単に無料だったから。展示作品に、家電のデザイン物もあり、ただし、その半分ぐらいは、商品ではなくてあくまでも作品なので、「作品にお手を触れないでください。」と書かれたシールが、展示品の真下に、等間隔できっちりと貼られていたのにも関わらず、すぐ目の前でそれらを見ていた若い男女が、思いっ切り触って、「これ欲しい〜」とか何とか話し合っているので、ちょっと驚きつつ、振り返ったら、店員さんがやきもきした表情で、今にも駆け寄るか駆け寄るまいかと葛藤中で足踏みをしていた。しかし、すでに完全にタイミングを逸しており、その人たちはその次の瞬間には、もうそのプロダクトの前からとっくに離れていた。でも、きっと、そうやって何も見ずに考えずに、つい触っちゃう人、他にもたくさんいそうな気がする…。会期中、店員さんのストレスだけが蓄積されていきそうだ。

ワタリウム美術館&オン・サンデーズ
http://www.watarium.co.jp/


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