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昔の話 [text]

 どうしてそんなことをあの人が突然言い出したのか、前後の文脈はまるで覚えてない、ただ、何かで読んだんだけどさあ、と、彼が最初に言った記憶はあるから、彼自身が思い付いた言葉ではなかったのだろう、とは思う。

「志を持って生きること、現状を肯定して暮らすこと、充実した性生活を送ること、この三つを全部満たした状態が、幸福な人生、ってことなんだってさ。それで、その三つをすべて満たすことは、凄く難しいことでもあるんだってよ。二つまでを両立させることは、そんなに難しいことじゃない。確かにそうなんだ。なんとなくわかるだろ?その三つを全部、同時に実行するって、考えてみたら、本当に難しいことなんだよ。」

 そのときに自分がどう答えたのかも、まるで覚えていない。

 なのに、その言葉だけは、今でも心に焼き付いていて、時々、ふと思い出す。そうして、それに同意しているわけでは決してないのに、思い出すたびに、今の自分は三つのことを実行しているだろうか、と考えてしまう。その言葉に照らし合わせて、今の自分は幸福なのだろうかと考え始める。

 あの頃の私は、もしかしたら、けっこう幸福だったのかもしれない、という感覚が、頭をよぎって、慌てて打ち消す。
 
 あの頃というのは、あの人がその言葉を私に不意に投げかけてきて、それを聞いていた、その頃のことだ。
 あのとき、私はまだ若くて我儘で生意気で、彼の考えていることがいつだってちっともわからなくて、なのに、戸惑うことも疑うこともなしに、彼と一緒にいないときには、彼と一緒にいる時間が待ち遠しくてたまらなくて、会えば少しでも長く一緒にいたいと、内心では願ってもいたのだ。
 なのに、私は彼のことを好きなわけでもなくて、彼も私のことを好きなわけでもないとわかっていて、だから、私たちは恋人同士でも何でもなかった。それなのに、気紛れに何度も会っては、飽きもせず同じことを繰り返した。二人きりで会っている間は、まるで恋人といるような距離感で、恋人同士がするようなことをして、だらだらと過ごした。そして、そのことを、お互いに誰からも秘密にしなければならない、という暗黙の了解があった。だから、他の誰にもそういう関係を明かさずに悟らせずに、最後まで隠し通そうとしたし、実際、彼という存在がかつてあったということすらも、私は誰にもまともに話したことがない、今までには。

 そのときには、何の迷いもなく、これは恋ではない、と無邪気に信じていた。だけど、今になって振り返ってみれば、私はやっぱり、彼に恋をしていた。だけど、その事実を認めてしまったら、何もかもがおしまいだ、という予感だけは、もやもやと心の奥底にこびりついていたから、私は、彼に恋することも、彼のことが好きで自分がその恋にすでにすっかりのめりこんでいる、と自覚することも、自らに禁じていたのだ。つまり、自分の気持ちに素直になることなんか絶対にできなくて、屈折だけを抱え込んで、それで精一杯強がっていた。

 それは全部、もう10年も前の出来事。

 それから、彼と、なんとなく少し遠ざかった後のことだった。
 私は別の男の子と付き合い始めて、その子が私の家にいるときだった。真夜中に彼が不意に現れた。電話の一本も寄こさずに、黙ってドアをノックして。それが当たり前のことであるかのように。ドアを開けると、やけに上機嫌に笑いながら、泊めてほしい、と彼が言った。私が、ごめん、ほかのひとがいるから、と小さな声で言って、視線を落とすと、彼は、明らかに私のものではない靴を見て、そうか、とそれだけで納得して、思い切り拗ねたような表情になり、わかったよ、と言って、立ち去った。

 最後に、彼と会ったのは、そのもう少し後のことだ。
 電車に乗っていて、乗換駅のホームに滑り込んだ電車の、ドアの窓から外を見ていて、ホームでスキップをしている彼の姿を、偶然にも見つけてしまった。私が知らない女の子と手を繋いで、ひどく楽しげに笑いながら。
 私が一度も見たことのない、明るい、大きな目を輝かせた、屈託のない笑顔。あの人はこんな表情もできる人だったのか、と愕然とした。そう思うと、真っ暗な井戸の中に、いきなり叩き落されたような心地がした。
 あ、と思ったその次の瞬間に、電車がホームに停車して、よりにもよって、その二人は、私が立っていたドアの前に立ち止まって。私が降りる、彼らが乗る、すれ違う。気付かなかったふりをして無視すればよかったのに。動顛して、つい、こんばんは、と声をかけてしまった。彼と目が合って、彼の顔から笑みが吹き飛んだとき、私は、墨を飲み込んだような気持ちになって、電車を降りて、そのままホームから階段へと逃げた。

 その翌年の寒い夏に、私の家には、男の子が一人、成り行き任せに転がり込んできて、そうして、そのまましばらく居着いてしまった。私は、その生活がいつまで持つのかもわからなくて、家に居候がいるようになった、としどろもどろに説明していた。すると、その噂を伝え聞いたらしい彼から、突然にメールが来た。おめでとう、とか何とか、からかうような言葉が並んでいた。だから、私もなるべくふざけた返事を書いた。だけど、それっきりメールももう来なくなった。彼と連絡を取り合ったのは、結局、それが最後になった。

 そして、私の家は、いつのまにか、私たちの家になった。いつ破綻してもおかしくないような気がしていた、同棲時代の始まり。
 しかし、思いのほかに、その暮らしは長続きした。私は、最初は居候と言っていたのを同居人と呼び換えて、その同じ男の子と、今でも一緒に暮らしている。あの人も来た部屋に、数年一緒に住んで、その後、一度、引越しをした。前の部屋に彼が不意にやってくることはさすがにもうなかった。
 私の携帯電話の番号も転居先も新しいメールアドレスも彼は知らない。彼が今どこで、何をしているのかを、私は知らない。

 あの人は私より四歳年上だった。あの頃の彼の年齢をとっくに追い越して、愚かしいほどに幼くて頭でっかちだった、昔の自分を思い出してみる。あるとき、彼が、そんな自意識過剰の自縄自縛に苦しんでいる私を解放してやりたい、と言ったことがあった。昔の私は、バカみたいなことを言う、と思いながらも、一方では、解放された自分、とやらを見てみたいような気持ちにもなった。今、誰かに同じ言葉を言われても、バカみたい、とだけしか思わない。なぜなら、それが、あるタイプの女の子を口説き落とすために有効な決まり文句なのだということを、今ではもう知ってしまっているから。

 たぶん、あの人に、また出会うことは、おそらくは、もう二度とないだろう。

 「志を持って生きること、現状を肯定して暮らすこと、充実した性生活を送ること」。

 その三つを同時に実践することはできていないのが今の私の現実だ。その言葉に照らし合わせたら、私はちっとも幸福ではないのだろう。
 だけど。彼のその言葉に縛られて生きていく必要なんかないのだ。その言葉に従って、あの頃の幸福を噛みしめてみても、甘い蜜の味なんかしない。
 私は私で、あの頃も今も、大して変わっていない。きっと解放されてもいない。そう、私はとても不幸、だから何?
 私は一生、このままで、どんな志も持たず、現状も自己も肯定せず、結婚して身を固めようとも恋愛を楽しもうともせずに、生きていくのだろう。それならそれで、別に構わないし。

 何もかも全部、もう10年も昔の話だから。 
 そして、今のことも、10年経てば、昔の話に、なる。


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小説「ウェザー・リポート」 #2 [text]

 この小学生時代に、彼の人生に後々まで影響を与えた、重要な二つの事物を発見することになる。その一つが百葉箱であり、もう一つがポルノ写真である。しかも、この二つの事物との出会いは、ほとんど運命的に、連続して起こった。

 彼が、空に対して、当時から深く関心を抱いていたことは、描き続けていた絵からも推測される。しかし、その関心がようやく気象にまでも及んだのは、10歳前後のことであったようだ。それ以前にも、夏休みの日記において、彼が天気について記録するときの細やかさは、並々ならぬものであったが、一日の記述の内容が、その日の出来事よりも、天候についての記録を優先したものになったのは、ちょうどその頃からである。それは、単なる子どもによる主観的な観察などではなくて、新聞に掲載された気象情報を参照した、驚くほど細密な記録になっている。しかし、その初期の段階では、彼にはまだ気象に関する知識が不足しており、彼自身、自らが書き写している用語などについて、きちんと理解していたわけではなかったようだ。

 ところが、ついに、決定的な予兆が、彼の身に訪れたのである。
 それは、10歳だか11歳だったかの、ある秋の日の出来事であったという。
「僕は、学校の庭で、一人で遊んでいた。曇り空は刻々と変容し、日が暮れるにつれて、見事な色彩を翻していた。薄い青、濃い青、橙色、紫色、藍色。
僕はその頃、枯葉を踏んで歩くことに、非常に熱心だった。なぜならば、枯れ葉が、強く踏みしめて細かくなり、元の形を留めなくなればなるほどに、早く土に帰すと信じていたからだ、より早く、より安楽に。
僕が特に熱心な狩場にしていたのは、動物が飼われている小屋の裏側だった。そこには、適切な落葉樹が何本もあったし、また、ウサギやニワトリが放つ、家畜の匂いが、堆肥の匂いと容易に結び付いて連想されたし、彼らの存在が、落ち葉を、より早く土に戻すのに、効果があるように思えたからだった。そうして落ち葉を踏みしめていた僕は、前の日にはなかったものを見つけた。
雑誌の切れ端だ!裸の女が写った写真だ!破り取られ皺くちゃになった紙!
白人の女。乳房が垂れた。乳首が大きな。乳輪が薄茶色の。無理なポーズをとった両足の間は、元から黒く塗りつぶされていた。
写真の女の目の色はそのときの空となぜか同じ色をしていた。
僕は激しく動揺した……」
「あの日、僕はあの写真を拾い上げた。他にも似たような写真が点々と散らばっていた。僕は注意深く周囲を窺いながら、すべての写真を回収した。しかし、とにかく重要だったのは、やはり最初の女だった。家に持ち帰りたいとも思ったが、母に見つかれば、きっと叱られるだろう、という気がした。そのとき、僕の目に入ったのが、あの白い箱だった……」
「白い木の箱は朽ちていた。鍵があったが、鍵は壊れていた。留め金は簡単に外れた。中には温度計と湿度計があった。僕は温度計と湿度計の奥に、見つけたものをすべて収めた。温度計は15.4度、湿度計は65%……」
「僕が百葉箱の中を毎日確認するようになったのはそれ以来だ。忘れ去られていた箱を僕だけが使うようになった。他の誰かが開けた気配があったことは一度もなかった。そう、僕だけがすべてを知っていたのだ……」

【つづく】


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小説「ウェザー・リポート」 #1 [text]

 彼が、自らが果たすべき重要な役割について、確信を得たのは、40歳の誕生日だった。

 それ以前にも、兆しめいた出来事は、幾らでもあった。ただし、後年の彼自身の回想によると、自らの役割を受け入れることが耐えがたがったがために、そうした兆しを、あえて見過ごしてきたのだ、という。

 そうした予兆は、彼の幼児期にまで遡ることができる。
 幼い頃、彼は、明るい光の中に浮かび上がる、沢山の粒子の運動を、つぶさに見ることができた。粒子同士が衝突や結合を繰り返し、その様相をさまざまに変えていくのを見ているだけで、彼は少しも退屈しなかった。
 他の人間には、その光景を見ることができないのだ、と彼が気が付いたのは、彼が窓辺に座り込み、中空を凝視し、いつものように光の中の粒子の変化を楽しんでいたときに、母親から、何をしているのか、と聞かれたからだ。彼が自分の目に映っていた光景について、丹念に説明したにも関わらず、母親は、共感や理解を示すどころか、ただただ無関心だった。
 彼の、窓辺に座り込む、という癖は、実は、その年齢からすでに、始まっていたのである。

 小学生になると、早々と光を見飽きた彼は、次にはいよいよ空に関心を寄せるようになる。
 通っていた小学校で、毎年行われていたスケッチ大会で、彼は画用紙の大半を、その日の空の様子に費やして描いた。他の子どもたちのように、植物や建造物を描こうとすることは、決してなかった。ただ、薄く溶いた水彩絵具を、何度も何度も執拗に塗り重ねて、その日の空の色合いを描き出そうと試みた。
 雲や風の動き、時間帯によって、実際の空模様は刻々と変わっていくのだが、しかし、彼は、そうした変化を気に留めることはほとんどなかった。描き始めたときには、これから描くべきその日の空の状態は、彼にはもうわかっているのだった。そのときそのときに目に映る空ではなく、すでに視界に張り付いている空、彼にとってのその日の正確な空を、ただ忠実に再現すればいいのだった。出来栄えはいつも驚くほどに良かった。彼が使うのは、特定の色の絵具ばかりではなかった。プラスチックの白いパレットの上に、少量ずつ絞り出されたあらゆる色だった。それらを、水で薄めて、注意深く混ぜ合わせた、その奇妙な色彩によって、彼の空はいつも表現された。
 そうした彼独自の画法は、教師にはまったく評価されなかったが、廊下に並べて貼られたスケッチの中で、彼の絵が異彩を放ち、他のどの子どもの絵よりも印象に残ることに、彼自身は、大いに満足していた。自らが描いた絵こそが、最も正確な自然の模倣であると、内心、悦に入ってすらもいたのだった。

【つづく】


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